物心ついた頃から、どうしても使い慣れないコトバ、というものがある。
私にとっては、家族、というコトバがそれだ。
カゾク、と口に出して人に言うのが恥ずかしい。カゾクというコトバを出している自分が、うそ臭く思えるのだ。
たぶんそれは、私にとって、カゾクというコトバが「未知」だからだと思われる。
一体、そのコトバが、何を指すのか、どういうイミなのかが、いまもって「難解」で、私にはそれを当たり前のように使いこなすことが、出来ないのである。
カゾクとは、一体、なんだろうか。
生物学的に一対の男女が子供を産み落として生活を共にするユニットのことがカゾク、というのなら、単純明快だ。私がオトコであり君がオンナである、という類のジジツと同じだ。しかし、世の中に流通しているカゾクというコトバには、明らかにそれ以上のイミが込められている。ただ一緒に暮らしていればカゾクか、と言えば、そうではあるまい。そこにはジジツを超えたプラスアルファが必要なのだ。
私にとっては、カゾクというコトバが「未知」である。もちろん、辞書的な意味合いではなく、「体感できない」という意味での「未知」。
恐らく人は、それぞれに自分の体感してきたカゾクの像を持っており、その体感に従って、自らもまたカゾクを作り上げていくことだろう。どんな形であれ、カゾクというものの「温度」や「質感」といったものが体感として保存されていれば、その人は何のためらいもなく、カゾク、というコトバを口にすることが出来るはずだ。
つまり私の場合、身体の記憶としてのカゾク、がない。少なくとも、リアリティを感じられるほど濃厚には残っていない、ということになる。
身体の記憶としてのカゾク。
そこには「父」がおり「母」がおり「子」がいて、それぞれに「パパ」や「ママ」や「○○君」といった呼称で呼び合う。食事では一つのテーブルを囲み、休日には揃って出かけたりする。「子」の人生上の節目(入学式や卒業式、また成人式)には「父」も「母」も揃って参加する。
・・・確かにそうした記憶ならば私にもある。だがそれは飽くまでもカゾクの「フォルム」だ。体感として、つまり生きた感覚としては、やはり私のなかにカゾク、は存在していない。カゾクの内実は、では一体、どこへ行ってしまったのか?私は虐待を受けたわけでも、取り分けて貧困だったというわけでもない。明確な「トラウマ」らしきものが見当たらない。それゆえに一層、自分の中から抜け落ちた「何か」が、空恐ろしい気がする。カゾクは「不在」という形で私の血肉と化していることになるからだ。
時に、自分のなかに非人間性を感じる。
それは周囲の人間関係を、前触れもなくいきなり断ち切ってしまう残酷さとなってあらわれたり、親しい筈の恋人や友人を鼻紙のごとく捨ててしまう冷酷さになってあらわれる。
私には、そうした自分の「人間関係への執着心のなさ」、また「すぐ隣の人間への根本的冷酷さ」というのが、どこかカゾクの体感欠如と繋がっている気がしてならない。
カゾクとはなにか。
それを問うことは、私にとって、「自分とは何か」と問うのと等しい。
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