「演劇」との戦い

私たちのやってきたことは、どこか、やはり「フツーのお芝居」とは違う、いわゆる「アングラっぽい」と言われる芝居でした。
それはなぜかというと、「セリフを喋る」「演技をする」という、皆がやっている当たり前の様式が、何だか臭くて、とても嫌、だったからです。

たとえば、演劇というのを観に行くと誰だって思うでしょうが、「いかにもそれらしい発声」をして、「身振り」「手振り」を交え、得意げに「演技」とやらをやります。で、お客さんというのは「ま、これが演劇というものなんだろうからこういうものなんだろう」と思い、「演劇ちっくな発声や身振り」を「当たり前のもの」として特に意識することもなく、素通りします。それは演じている側も同じです。「皆がやっているから、こういう喋り方が絶対的に正しい」と無意識のように思い込み、何のギモンもはさむことなく、「演劇っぽい演劇」をやってしまうのです。そこには演劇論、などありません。あるのは、ただの無意識です。

私は当時も今も、そういった「演劇」が大っ嫌いです。

私たちがやろうとしていたのは、まさに、そうした「演劇ちっくな演劇」から出来るだけ「遠ざかる」ことでした。その際、指標となったのが、山崎哲さんの演劇論です(私は山崎さんの演劇論に圧倒的影響を受けています。以下に述べることは単なる私の思いつきではなく、哲さんの演劇論を自分なりに実践しようとしてきた中で、実感として掴んだ事、として書きます)。


さて、山崎哲さんの演劇論を武器にさせてもらいながら、私たちがまず、排除したのは、「演技すること」また「キャラづくり」です。そうではなく、役者の生身の身体を、いかにして変貌させられるか、を重要視しました。芝居の台本やセリフというものを「設計図」としてではなく、役者が自らの身体を非日常的なものに組み替えるためのテコ、として考えたのです。

なぜ、役者というものは(経験を積んで思い上ったバカは特に)「演劇」っぽい喋り方になってしまうのか。
「演劇」というのがひとつの「制度」だからです。
では、どのような「制度」なのか。
それは難しく言えば、人間の「内面」への信仰です。
「コトバと内面が繋がっている」という信仰です。

たとえば、「暑いっ!」というセリフがあるとします。あなたはこれをどう喋りますか。
おそらく、誰もが無意識のうちに、「顔をしかめて、ちょっと高めのトーンで(手で団扇を仰ぐしぐさでもつけながら)こころもち斜め上空を見上げて、眩しそうに吐き出す」のではないでしょうか。賭けてもいいです。絶対にそうなります。
なぜか。「暑い」というコトバを、じぶんの生理に関係づけて理解し、その生理感覚を「表現」しようとするからです。
これは、「憎い」だとか「愛してる」だとかの「感情」をあらわすコトバを喋る時にはもっとひどくなります。
コトバを自分の「内面にある実感」と重ね合わせて喋ろうとするから、なにもかもが「エンゲキ」っぽくなってしまうのです。あなたにも見覚えがあるでしょう。「自分の内面の実感とコトバ」とをシンクロさせようとして、無闇やたらと肩にチカラの入った役者さんが。そこにも、ここにも、たっくさんいるじゃありませんか。そして我々はウンザリするのです。「誰もお前の内面の実感などに興味はないのだよ」と。

「エンゲキ」から逃れるためには、まず、セリフに対するセンス考え方を、改めなければなりません。

セリフを、自分の「内面」から切断する、のです。
「暑い」というコトバは「ア」「ツ」「イ」という三音によって構成されています。
そして、それ以上でも以下でもない、と考えるのです。

表記してみれば「私は、暑くて死にそうです」
これを、
「ワタシハ、アツクテ、シニソウデス」
と書き換えるかのように、セリフを自分の「内面」から切断するのです。
一言で言えば、「感情を廃する」ということです。
前に「役者は冷静でなければならない」と私が述べたのは、このことを意味します。
「ワタシハ アツクテ シニソウ デス」
というコトバの音の連なりを、生理や感情を表現しようとせず、純粋にイミだけで発音するのです。そうするとどうなるか。
不思議と、「私は暑くて死にそうです」という概念が、聞いている者の耳にスッと入ってきます。役者が自分の「内面」を殺し、コトバに余計なものを背負わせないから、コトバが「立つ」のです。伝わりやすくなるのです。
「私はあなたを愛しています」
これを
「ワタシハ アナタヲ アイシテイマス」
と変換し、
次に、
「ワタシハアナタヲアイシテイマス」と、かなりの速度で一息に喋らせます。役者が感情移入できないようにするのです。または、「わ た し は あ な た を あ い し て い ま す!」と、コトバそのものを分解し、一音一音を前に、前に吐き出させます。これも、役者の「内面」が動きださないように牽制するため、です。

 

ためしに、自分の内面を関与させず、セリフを純粋に喋ってごらんになるといいと思います。するとセリフというのが自分の「外」にあるのがよくわかるでしょう。セリフが自分の「外」にあることを手触ることで、かえって逆に、自分自身の「中」がクッキリと感じられるようになりませんか?内面を殺してセリフを「外化」することによって、逆に自分自身を生き生きと奪還することが出来るはずなのです。


ちなみに、そのようにコトバと「内面」を引き剥がすことに成功すれば、「その日の調子」にはあまり左右されないようになります。
もちろん、芝居は「ナマモノ」なので、調子の良し悪し、というのは多かれ少なかれあるのですが、はじめから芝居に自分の「内面」を関与させないようブロックしてあるので、自分の調子などはあまり問題ではなくなるのです。ただ周囲の状況を良く読み、それに合わせてコトバの強弱をあげたりさげたり、はやめたり遅めたりといったこと「だけ」さえ考えていれば、その日の「テメエの調子」などは第二次的な現象として背景に退いてしまうでしょう。

「演劇ちっくな演劇」は、どうすれば破壊できるのか。破壊した上で、鑑賞するに堪えうる作品を構成できるかー。
いま振り返ると、我々の九回の公演はそのための「実験」だった気がします。そして第八回めや九回めの公演で、やっと、やや手ごたえを感じられるようにはなったものの、それ以外は部分的な成功を収めながらも、総体的には「失敗」だったと思います。破壊するのに性急すぎて、見せ物としての作品になり切れていないからです。私の「教え方」が至らなかったということもあります。演出上の拙さも含めて。ただし、私はその「失敗」を恥じていません(悔いはありますが)。「失敗」することによって得た確信がありますし、無意識に何の疑いもなく「エンゲキ」をやり続けているヒト達のほうが、よっぽど恥ずかしいよ、と思うからです。

我々のやってきた芝居は、「演劇」との戦いです。それは「生きた身体」を、また、「コトバ」を取り戻す戦い、でもあります。
次の公演では、これを「誰が見ても楽しめる」洗練された表現へと昇華させたいと考えています。

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