1
我々はいつも、現状を「何かが違う」と思っている。
「本物の自分というのが、どこかにあるのではないか」
つまり現在の自分はほんとうではない、という思いがある。
だが果たして「本当の自分」などどこにあるか。
「こうでしかない現実が本当の姿」だからこそ、
「そうでない姿」を「本当」であるかのように思いたい、錯覚したいのだ。
2
「この現在こそがおまえの本当の姿だ。妄想などするな」と指し示されることは、
人を無気力にする。
その先の可能性を扼殺されたように感じる。
しかし我々は、それをもしも神のごとき存在から指し示されるならば、むしろ安心立命するのではないか。
人間の不安は、自分の「本当の姿」が「どれ」なのか、
「それ」が未来にあるのか過去にあったものなのか、
いずれも決定不能であるところからやってくる。
だから神のごときものに決定してもらうことさえできれば、
それがたとえドブ板の下で息つくような、惨めな人生だとしても、
人間は不安にはならない。
どんな人間よりも幸福であろう。
3
我々の社会は「いま、ここ」を常に更新し続けることで
資本を増大させていく。
その只中に生きる我々もまた、常に「上昇していく自分」という強迫観念に犯される。
しかしどんなに「現状」を乗り越えても、
いつまでたっても「ほんとう」には到達できない。
もっと正確にいえば、
到達できないからこそ、「本当のこと」なのだ。
4
我々には神がない。
だから「自分」を決定することができない。
ときに、神のごとく自分を決定できるような天才的な人物があらわれたりもするが、それは「例外」であり、
凡人がそれを真似ようとすれば気が狂う。
トチ狂ってしまわないために、気をつけるべきことー
「嘘」や「本当」というカテゴリを自分の人生に持ち込まないことー
5
平凡な人こそが、最も幸福である。
しかし、「平凡になろう」と思ってしまった瞬間、もうそれは「平凡」ではない。
もしも実際に平凡な人だったら、「平凡になろう」などとわざわざ考えない。
「幸福な人」が、「幸福になろう」などとわざわざ考えたりしないように。
6
ことばは、病だ。
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