1 不眠
男がいる。
ほとんど眠ることが出来ない。
浅い眠りで蓄えたわずかなエネルギーさえ、全て「不安」と戦うことに使い果たす。
彼はいつでも目の前の人間の視線を読むことに手一杯となる。
だから自由に空気を吸える場所はこの地上においてはきわめて少ない。
なにかを「楽しむ」という余裕がない。
2 身体の硬直。
胸につっかえがあり、言葉が自由にあらわれない。
彼にとってコミュニケーションとは、「言いたい事を伝えること」ではなく、
「いかに相手の期待する事を言えるか」であり、
つまりそこには「自分」などというものはなく、「伝える」ということもなく、
果てしのない「勘ぐり」があるだけ。
こんなものは本当にはコミュニケーションとは言えず、
言葉を交わせば交わすほど消耗するだけ。
3 寝覚めぎわ
目が覚める間際の数分、彼は深い絶望を味わう。
いまこうしてこの世に「ある」ということが、きわめて理不尽なことに思われてくる。
今日も一日がはじまり、昨日と同じように、また終わる。
昨日の目覚めの瞬間にもそう思い、その前の日にもそう思い、
きっと明日もそう思い、明後日もそのように思いながら目覚めるだろう。
知らぬうちに生まれてわけもわからぬまま日々を繰り返して或る日いきなり死ぬという、人間に課された悲惨。
目覚め際のひどい無力感と絶望にかられながら、身体に染み付いた起床時間に従って(ただそれだけに従って)目を覚ます。
するとまた次の朝までは絶望を忘れる。生きる事の疲労によって絶望を忘れる。
4 外
外を歩きながら胸を締め付けられる。
「この世には慰安の場所などどこにもない。
人の目に触れない場所に逃げ込みたい」
5 木霊
どこにいても何をやっていても自分が自分ではない。
自分が自分を否定している。
おまえはおまえではないと否定している。
「生きている」のではなくただ「戸惑っている」だけ。
6 流失
割れる、割れる、頭が割れる、わけもないのに
頭が割れる、なんにもわけがない、わけがないのに
頭が割れる、自分で自分を信じられず
自分の言葉を信じられず自分の欲望を信じられず
自分の輪郭を忘れ、意識はアミーバのようにのびてだらりとひろがり、
近い記憶などは溶けている。
7 過信
喋り方、笑い方、怒り方、歩き方、挨拶の仕方、あらゆる仕方の、いったい、どれが正しいやり方なのか?
少しでも間違えれば目の前の人間は愛想を尽かしてぷいとあっちを向く。
答えを与えられずに待ちぼうけをくらう行方不明の少年。
「笑顔など信じるな。信じれば次の瞬間に頬を張られて傷を負うだけ」
8 本音の嘘
他人の思惑ばかりを追いかけていると、自分が何を欲しているのかがわからなくなる。
「言いたい事をまっすぐに言う事ができたら」
だが人前に出ると「言いたい事」が消滅する。
「言いたい事を言ってご覧」と相手が言う。すると相手が期待しているであろう内容を探りはじめてしまう。
「あたかも本音っぽい本音」を「告白」してみせる。彼にとって本音とは多くの場合、「言いたい事」ではなく、「言わなければならない事」でしかない。
9 仮死
「心が物欲しげな顔をしているので、お前なんか死んじゃいな、と言って突っついてやるのです。するとそれが多少の刺激となって、ちょっと痛くて、ああこれが自分だ、自分が生きているのだと(微かに)感じるのです」
10 宿命
生きる事は拡大されたおのれの脳髄のなかを歩いていくようなものだ。
この世の景色は自分の息づかいや気詰まり、不安によって織り上げられている。
ここから出してくれ!たすけてくれ!と扉を叩く。
叩いても叩いても返事はなく、叩き続けていつしか歳をとり、最後の瞬間にそれが開く。
ところが光が見えるそのせつな、
もう彼は息を引き取っている。
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