韓国映画「息もできない」(ヤン・イクチュン監督)を鑑賞。
韓国映画、やはりクオリティ高い。
邦画と一番ちがうのはリアリティ。
画面の向こうに生活感があるし、役者のカオ立ちも味があるし、演技も押し付けがましくないし、そもそも邦画とは基礎力みたいなもんが違うんじゃないだろうか。しかも段違いに。
韓国映画みてると、これ、本当に同じアジア人がつくったものなのか、と不思議になる(日本の映画だって1970年代に入る頃までのものには良いものいっぱいあったのに!)。
朝鮮人をバカにしてる暇などない。邦画の未来のためには今すぐ彼らを見習いに海峡を渡り、性根叩きなおしてこい日本映画人!(笑)
以下、あらすじ。
「主人公サンフンは、少しでも気に入らないことがあれば、相手かまわずすぐに手をあげる暴力的な人間である。彼はヤミ金の取立て屋をやっており、暴力によって債務者から金をむしり取る毎日を送っている。
或る日、彼はふとしたきっかけで女子高生ヨニと出会う。
サンフンの父は毎日のように家庭で暴力をふるう「ロクデナシ」だったが、ヨニの父も、仕事もせず子供に食べさせてもらっている「ロクデナシ」である。『恵まれぬ家庭で育った』という共通点を持つ二人は何となく気が合い、不思議な友情を育んでゆく。
やがて自分の父が自殺をはかるというショッキングな出来事を前にしたことや、ヨニとの友情、また父のない甥の不憫さを目の当たりにした事などをキッカケに、サンフンはこれまでの自分をあらためるため『取り立て屋稼業』から足を洗うことを決心するのだが・・」
この映画は「父」というのが大きなテーマになっている。
この映画に出てくるのはサンフンとヨニの「父」だが、どちらも負けず劣らずの「クズ」である。暴力で他人を支配する。子供をネグレクトする。「カゾク」を破壊する。
サンフンのセリフでは何度も「クソ野郎」というのが出てくるが、彼はほとんどどの相手に対しても「クソ野郎」を言い放ち、愛想笑いなど微塵も見せず、なにかに絶望しきったみたいに触れるもの皆、殴りつける。
そう、サンフンが口癖のように言う「クソ野郎」って、結局、自分を育てた、「若かったころの父親」に言いたいコトバなのだ。
彼は「父殺し」をやりたいのである。
なぜなら、心の中では「父」を殺せていないからだ。「父殺し」に失敗したからだ。どうして失敗したのか。父が暴力的で「強すぎた」からである。
殺せていないから、心が自立できない。
自立できてないから、自分をシアワセにすることができない。
それをどこかでわかっているから、殺したい。
「子供」から卒業したい。
でも現実の「父」はかつてのように、もう強くない。
フヌケになったみたいに、酒を飲むだけの「廃人」になってしまった。
自分が子供だった頃の「強い父親」はもうどこにもいない。
だからいくら本人を殴っても、罵言を浴びせても、満たされない。
満たされないから他人に暴力をふるう。
殺すべき「父」をもとめて、自分の人生を破滅の道に追い込んでゆく。
まるで「父よ、おまえを殺させてくれ!」と、何もない空間めがけてメクラ滅法にナイフを振り回すようにだ。
こういう映画において、ヤクザの主人公は絶対にシアワセになれない。
観ていると、「こいつはろくな死に方をしないぞ」と思う。
市民社会からみるなら、こいつはロクでもない、救いようのない、「人間のクズ」だからだ。
でも「クズ」にだって「クズ」になった理由というのがある。
「クズ」にだって温かいところも弱いところもある。つまり「フツーの人」と同じものを持っている。
この映画ではクライマックスに至るまでに、さりげなくそういう伏線がひかれている。
だから観ている我々はこんな「人間のクズ」にも、いつの間にか「感情移入」させられてしまう。
さて、私にとって最も印象的だったシーンは以下のようなものだ。
サンフンがいつものように父に罵言を浴びせ、殴りつけてやるために部屋の扉をひらくと、父が手首を切って大量の血を流したまま転がっているのを発見する。「あの野郎、ぶっ殺してやる」といきまいていたサンフンのカオが、一瞬であおざめる。
彼は父を背負い、病院まで走る。泣きながら背中の父に向かって言う。
「死ぬな、死ぬな、生きろ、生きてくれ」
「お前が死んだらおれは・・・」
そして病院では
「俺の血を一滴のこらずそいつにくれてやれ!」
と叫ぶ。
自分の命はどうでもいい。なんとかして父を生かしてくれ、と叫びながら医者に頼み込むのだ。
その夜、河岸にヨニを呼び出して二人でビールを飲むのだが、ふいにヨニの膝を枕に寝転がり、「親御さんを大切にしろよ」と言い、あの「最低のクズ」だったはずの男が、カオを覆ったまま子供のようにおいおいと泣き始めるのである(この映画の最大の山場)。
ああ、私も泣かされた(笑)。
子供というのは、自分を犠牲にしてでも父や母に生きていてほしい。
自分を犠牲にして家族が上手くいくのであれば、喜んで自分を犠牲に差し出す。
私の思うに、映画では描かれないが、サンフンにはこれまでに「自分を犠牲にして家族を守ろうとした」記憶が、たくさんあるに違いない。
大人になるまでのあいだに、きっとたくさん自分を犠牲にしてきたに違いない。損してきたに違いない。
父を憎むことでそんな自分に見切りをつけたかったのに、結局、いざという時には父を守ってしまう自分がいる。自分の命を差し出してしまう自分がいる。父をあわれと思ってしまう自分がいる。それがやりきれないのだ。
サンフンは「父殺し」に失敗した子供だ。
でも父の自殺未遂を通じて、たしかに彼の中で何かが変わった。
何かが変わったからこそ、他人に向かって「親御さんを大切にしろよ」というコトバが言えるのだ。
何かが変わったと、私は信じたい。
「父を殺す」こと、それは「諦める」ことだ。
「諦める」ことを「知る」ことだ。
「父」など、もうどこにも「いない」のだということ。
「父」も「その他の弱い人間の中のひとり」に過ぎないのだということ。
・・・・
最近みたのと比較すると、「母」を主題にした「嘆きのピエタ」よりも、「父」を主題に持ってきたこっちの方が私的には好み。へんに作りこみ過ぎないラフな感じも好み。子供のまま大人になってしまった男もよく描けてる。
山場を越えたあとはちょっと「間延び」してる感が否めないのが残念だが、総じて良い映画。リアリティ溢れる生々しい映像なのにテンポが良く、エンターテインメントとしても観れてしまうのはさすが、韓国映画。
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